阿修羅にして花の如く


前編/

「愚か者め」

壱/
 今上帝の文明向上政策のもと、帝都の数百箇所に瓦斯灯が設置されてはいたものの、灯かりの届かぬ闇はまだ存在した。帝都の端から端となると
その千倍は確実に必要なのだが、まだまだ御所を中心とした地域が優先されているのが実情だ。
 帝都と相模領を分断する多摩川の土手ともなると、月や星の明かりが変わらずその力を発揮している。特に今宵は満月が煌々と夜道を照らしている、
はずだった。
 子も三刻になる今、月は雲に隠れ、新月の夜とそう変わらない。
 頭巾の付いた白の外套を着込み、川下へ歩く人影の足は速かった。さりげなく周囲を伺う様子もある。警察制度が取り入れられた帝都は治安が良いが、
それでも夜の一人歩きは危うい。民家もあまり無いこの辺りでは、警戒をするのも当然であった。
 しばらくして、草履が地面を擦る音が続く中に、もう一人の草履の音が混じり始めた。
 外套を着込んだ人影の後ろを、布で口元を覆った男が追っていく。丈の短い着流しに、洋風の下穿きという若い男がよくする合わせの風体である。
 覗く両目はまっすぐ外套の人物を獲物と見据え、欲望を湛えていた。
 男は、数ヶ月ほど前から夜を狩場としている。一人で歩く無防備な者って金品を奪い、その心身を痛めつけ、また命さえ奪うこともあった。
 男には確信がある。自分にはそれが許されているのだと。何故なら、自分には神から与えられた力があるから。
 力を振るうあの瞬間を想い、男はこぶしを握り締める。布の下では、うっすら哂っていた。眼前の獲物が女だと確信していたためだ。
 外套で覆われても体格は測れるし、歩幅も大きくない。草履の型も若い女が好みそうな衣装だった。
 馬鹿な奴。夜に一人で歩くなんて、襲ってくれと言っているのと同じだよ。
 女の夜歩きは珍しいため、男もまだ女相手にあの力を振るったことはなかった。未知の快楽に喉を鳴らす。
 外套の人物がふいに足を止め、かがんだ。全身を覆う外套のために男からは確認できなかったものの、どうやら草履の鼻緒を直しているらしかった。
 ここだ。
 機を掴んだ男は一気に走った。まずは背中を蹴りつけて、倒れたところを引きずり回す。獲物がどれだけ恐怖で引きつった哀れな顔をするのかを見届け、
アレを使う。
 男は白い外套へ、足を踏み込んだ。

 男の世界は痛みを伴って反転した。
 状況が分からないままでもどうにか男が体勢を整えようとすると、その胸が強く押される。まず確認できたのは、白く浮かび上がる鞘。視線が遡る先には、
男を見下ろす外套の人影。
 男は外套の人物に刀を突きつけられていた。右足を踏み込んだ瞬間に軸の左足を鞘で払われ横転したのだ。
「馬鹿な奴。獲物はお前だよ」
 心が追いつかない男は、ぼんやりと相手を見上げることしかできない。月の出ない暗さと、被っている頭巾とが、人影の容貌を隠している。
 固まった男の胸を二度三度と人影は突く。刀は純白の鞘に納められたままだったが、それでも力は伝わってきていた。
「立ちな。大人しくしていれば、これ以上は許してやるよ。暴れたら、・・・分かっているだろ」
 語る声の高さと内容とが釣り合わない。その落差が、男の怒りを煽る。
 何で、こんな女に、俺が、見下ろされている?
「女の一人歩きだと侮って、お前らみたいな輩は面白いくらいに引っかかる。いつまでも強者でいられるなんて、根拠の無い優位に立っているからだ。
愚か者め」
「・・・愚か者は・・・」
男が口元の布を剥ぎ取る。ぎりぎりと歯を食いしばる音が人影の耳にも届いた。
「愚か者はてめえだよッ!!」
男の怒声と共に、周囲の空気が巻き上がり弾けた。人影は瞬時、後ろに跳躍する。
「!!」
人影が目を見張るのが、男には見えただろうか。
彼女の視線の先には、異形がいた。
外見だけ見れば、猿である。両足を大きく広げ、背を曲げたどこか滑稽な姿で男の背後に立っている。けれど、身の丈は男を大きく越え、縦も横も二倍はあった。
何より、猿の頭は上下が逆さまだった。本来なら両目がある位置の口からは、荒い息が漏れている。
「・・・夜叉(ヤシャ)遣い」
 鞘に納められたままの刀を構えて、人影は呟く。
「ようく、知ってるじゃねえか。けどよ・・・」
 男の両眼が、夜叉遣いであることを示威するように、紅く爛々と輝く。そして、死の宣告を下す。
「知ってるからってどうなるもんでもねぇけどな!」
 異形の猿は大きく口を開き、咆哮を轟かせる。咆哮と共に吐き出されたもの、それは意思を持つ炎だった。炎は空中を真っ直ぐ外套の人影へと走り、襲いかかろうとする。
 人影は先ほどと同じく、後ろへ跳ぼうと構えた。
 だが、炎は人影の頭上に到達すると八方に散り、檻の如く囲い込む。前、後ろ、左右と退路が断たれたことに、人影は舌打ちする。そして、彼女が防御体勢に
入るより速く死の鉄槌が襲う。
「ざまあ見やがれ!」
 人のかたちに燃え盛る炎で、辺りは明るい。火の爆ぜる音に、男の哄笑が混じる。
「あはははははははははッ!」
 ゆらりと、炎に包まれた人物が地に膝を着いた刹那。
 空で何かが弾け、周囲に降り注ぐ。
「うわあああッ!」
 男の身体を空から打ち据えるものの正体は滝の如き雨だった。痛みに上げた悲鳴も、轟音にかき消される。天に許しを乞うように身体を丸めて、男は嵐が過ぎ
去るのを待った。異形の猿も悲鳴を上げながら主の周囲を踊り狂う。
 時でいえば、ほんの数秒ほどであったのに、男にはその何千倍のように感じられた。
 痛みに喘ぎながら恐る恐る頭を上げると、周囲の土は水を吸いきれず、着いた手のひらが埋まるほどに水を張っていた。
 まず目に入ったのは、刃を地に突き立て片膝をついて俯く姿。顔は見えない。炎にまかれながらも、先ほどの大雨に助けられたようだ。刀の鞘が無いのは、雨に
流された為だろうか。
全身は男と同じように濡れそぼち、肩で息をしているのが夜闇でも分かった。外套は燃え落ちてしまったらしく、長着の、両袖を落としてある独特の装いがあらわに
なっている。丈も短く、両脚が見えている。
 雲がふいに切れた。月の光が人間二人と、異形とを照らす。
「まったく、・・・やってくれるじゃないか」
 どこか自嘲するような声音で呟き、彼女は面を上げる。
 男は呆けたように、ただただ見つめることしかできない。
 水滴のしたたる髪は、異人の持つ鈍い赤と黒のまだら。大きな瞳はきつく男を睨んでいる。目鼻立ちのしっかりした異相ともいえる造作は幼さを残しており、
年頃は十五、六くらいか。不敵に哂う唇の右には、蒼く輝く桜のかたちの痣。
 痣が示すもの、それは。
阿修羅(アスラ)、使い・・・」
「その通り」
 紅く爛々と輝く瞳が夜叉遣いの証ならば、四色に輝く痣は阿修羅使いの証。
 少女は立ち上がると、刀を薙いで水気を払う。彼女の体格は並みであるのに、男は圧迫感を感じた。それは少女が阿修羅使いだと知ったためか、それとも
阿修羅そのものに対してなのか。
 少女の華奢な手に握られている刀。二尺ほどの刃に月の光のもと銀色の鈍い光を湛え、柄は白と金の糸で飾られている。
 これこそ、阿修羅。
「確かに私らはあんた達に比べたら相当珍しいだろうけど、会うときは会うんだよ。・・・・さあ、続きをしようか」
 無造作な構えで、刀の切っ先を男へ向ける。水浸しのなか、草履を摺り足で進める先に、波紋が広がった。
「ああああッ!阿修羅使いだからっていい気になんじゃねぇぞ!やっちまえ、『炎猴(えんこう)』!」
 男の叫び。異形の猿は意を得たというように、奇声を発する。飛び跳ね、ばしゃばしゃと派手な飛沫をあげて少女へと駆けていく。
 正面から来る猿に、少女は容赦なく斬りつけた。そのためらいのなさが、見事な線を描いた一撃となって敵を屠ろうとする。
 異形の猿の咆哮。炎の吐息が少女へ吹きつけられた。
「くっ!」
 襲う熱気に少女はたたらを踏むしかない。刀を左で構えたまま、それでも、むき出しの右腕で炎を払いのける。
 眼前に異形の猿はいない。瞳だけを動かし、周囲を確かめる。それでもいない。
「上か!」
 少女が叫んで見上げた先には、落下してくる異形の猿があった。開いた口腔から、とぐろ巻く炎が見える。
 唇のそばの蒼い桜の痣が、少女の笑みに応えるかのように一際強く輝いた、その瞬間。
「あぎゃぎゃぎゃぎゃ!」
 異形の猿は浮き上がった。下から突き上げてくる水流によって。
「な、なんで・・・」
 男は眼前の光景に声を失う。異形を閉じ込める水の牢屋がそこにあった。
膝から崩れ落ちた地面には、もはや水は無い。潮が引くように整然と消え失せて、いまや水の柱となっていた。
 異形の猿の口腔からは気泡ばかりが漏れ、炎は意味を成さない。豊かな水がそれを阻む。水の柱から飛び出そうとあちこちに暴れまわるが、水は先回りを
して逃げ道を塞ぐ。
 男の夜叉は、完全な虜囚となっていた。
 少女は色を失う男へと向き直る。
「あんた、夜叉の家系でも末端の末端なんだろ?阿修羅について何も知らなさそうだ」
 断言に、男は過剰に反応した。それを見た少女の顔に、怒りに似たものが浮かぶ。
「・・・冥途の土産に教えてやるよ。阿修羅はまず四つに大別され、これを『(ともがら)』と呼ぶ。さらに四つ、扱う力によって枝分かれし、これを『(ことわり)』とする」
 右手で痣をなぞりながら、少女は語る。淡々と。
「私の痣、桜のかたちをしているだろ。これが『属』。そして、色は『理』を示すもの。蒼は・・・」
 炎を洗い清めた突然の大雨。
 一気に消えた雨水。
 夜叉を閉じ込めている水の柱。
 空気が震えた。
 事態を悟り、ぞわりと男の背中を悪寒が走っていく。
「・・・水」
「正解。・・・・あはははははは!あはははははははッ!」
 夜闇を切り裂く悲鳴にも似た哄笑が、少女からほとばしる。何が可笑しいのか、異様な笑い声は続く。
 男は自身も意識しないまま、逃げ道を探していた。両手は、頼りない子供の手のように地を掻くことしかできない。
「逃がさないよ」
「ッ!」
 少女は哄笑を止め、冷え切った瞳で男を見下ろす。
「すぐ左手には川がある。つまり、私の力の源が無尽蔵にあるってことだ。・・・その気になれば、お前なんて水圧で潰してやれるよ?すごくすごく苦しい死に方だ」
 息苦しいまでの殺意が男へと向けられているのに比べ、少女の足取りは静かだった。習慣の散歩をしているかのような気軽さで男に近づく。
 刀の切っ先が男の喉元に突きつけられた。ほんの少し横に薙げば、息の根を止められるくらいに。
 ぱくぱくと、男は息を求めて喘ぐ。命を乞おうにも、声も出なくなってしまったらしい。その姿は哀れさを誘うものだったが、少女の怒りは逆に増す。
「・・・命が惜しいくせに、力なんか使うな。殺されることも考えないで、殺すことをするな!」
 先ほどの冷たさから一転、少女は言い募る。興奮のあまり手が震え、刀が男の喉に浅い傷を作る。彼女の赤と黒のまだらの髪は月の光に透け、一層燃えて
見えていた。憤怒の怒りを表わすかのように、激しく。
 激昂は少女の息を乱し、獣じみた吐息が漏れる。だが、それも僅かな間に過ぎなかった。
「・・・さあ、さよならの時間だ」
 切っ先を正確な動作で戻し、少女は刀を上段に構えた。
「命が消える寸前まで、その罪の深さを考えろ!」
 男の意識が飛ぶ前に目に焼きついたのは、その刀身を包んだ光。
 白く光る、その輝きだった。
 そして。

参/
 大和帝国(やまとていこく)の中心、帝都。その帝都の中心に内裏はある。
 ここでいう中心とは、地形的な意味合いではない。内裏は帝室の住居。今上帝が坐す、政治の中心という意味だ。
 そして、大内裏。
 内裏の南側の朱雀門を境とし、東西と南北に約半里の規模に政治や祭事、文と武などあらゆる目的に沿った官庁街である。
 そこが彩邑蜜(あやむらみつ)の職場だ。
とうに日も高くなったころ、蜜は大内裏に出仕した。
 定時より出仕している他部署の人間の様々な視線を浴びながら、大路を堂々と歩いていく。
 興味、当惑、侮蔑、恐怖、同情。
 皆誰もが、彩邑蜜だと認識して眼差しを送る。直接の面識すら無い人間でも彼女が彼女本人であることを分かっていた。人間違いなどしたくてもできない。彩邑蜜は
あまりにも特異な外見をもっている。
鈍い赤と黒のまだらの髪や、目鼻立ちのくっきりとした顔立ちは異相だ。周囲の人間の、髪も瞳も黒一色の風体から明らかに浮きだっている。
奉職に就いていることを示すその服装も襟元が緩められており、裾の合せも開き気味でだらしない。大股で歩くので、両脚が交互に見え隠れしていた。
 蜜が軽く視線をそちらに流すと、集団は一様にびくりと身体が跳ねてそそくさと散っていった。
 大きく息を吐いて、蜜は真直ぐ職場に向かう。くだらないものに割くには、蜜の人生の時は短すぎる。今、こうして歩いている時間さえ惜しいというのに。
 大内裏は広い。職場へは、約半里を端から端まで歩かねばならない。
 蜜が所属する呪部省阿修羅寮(じゅぶしょうアスラりょう)は内裏から見て、朱雀門のすぐ左手側にある。非常時には内裏の守護を担う必要があるからだが、平素にはこれほど面倒な位置も
ないだろう。加えて、夜叉寮(ヤシャりょう)や警備職の府も集中しているので、縄張り意識も強い。
 今日、蜜は給与金の受取の為に出仕したが、それも二月近く振りのことだ。生活の金が必要になって、ようやく出てきたのである。前回と同じく、あの女が出てこないうちに手続きをして帰る腹積もりだった。
 歩幅を緩めず建物に入り、そのまま出納係の部屋に向かう。乱暴に戸を開いたので、四人いる出納係は全員仕事の手を止めて侵入者を見た。そして、侵入者の正体を
見るや、動揺が走った。
 蜜は即座に組みしやすそうな女性文官を見つけ、近寄った。蜜よりほんの少し年長に見える文官は、周囲の同僚に助けを求めるようにおろおろと左右に首を振る。けれど、
同僚たちも、仲間を助ける術を持っていなかった。
 訪問者と文官の職場とを分ける長机に乗り出し、蜜はさらに彼女との距離を縮めた。
「給与」
 端的な物言いに、文官はさらに動揺した。持っている書類を汗で皺にしながら、ようやく声を振りしぼる。
「あ、あのう・・・手続きが必要なので、所定の書類を・・・。出納簿に受取証明の記帳と業務休暇の・・・」
 言い終わらないうちに、蜜は長机を叩く。叩かれたのは自分であるかのように錯覚した女性文官は物が言えなくなる。
「給与分の手続きだけでいい」
「ですが、規、規定で・・・」
 先を封じるために、蜜はもう一度強く長机を叩いた。
「本人が、必要ないって言っているんだ。・・・金だよ、金」
 低い声で年下の少女に凄まれて、女性文官は涙目になる。蜜の、特殊な髪の色や顔立ちのせいで迫力は増していた。
「規定が・・・」
 なけなしの勇気を出して女性文官が職務を果たそうとすると、蜜の眉が跳ね上がった。蜜が口を開こうとしたその時、戸が再び引かれた。
「彩邑様。久方ぶりですね」
 入ってきたのは、四十をいくらか越している実務経験・年齢共に最長の出納係であり、この場の責任者だ。蜜の記憶では彼の名は佐々木(ささき)といった。
 目に見えて、周囲の文官たちは安堵の息をついた。
「二月ほどお見えになりませんでしたが、ご健勝なようでようございました」
 娘でもおかしくない年頃の蜜にすら、佐々木は徹底した態度で接してくる。蜜はそれをたまらなく苦手とした。背筋が寒くなるのだ。力で向かってくる相手になら
いくらでも強く出れるが、能面のように無表情でいながらこうした低姿勢でこられるとどうしたらいいか分からなくなる。
「うちの者が何か不手際でもありましたか?」
「・・・溜まっている給与を受取りにきたんだけど、埒が明かなくて」
 女性文官が涙目であうあうと唇を震わせているのを見て、佐々木はすべてを飲み込んだ。いつものように蜜が無理を通そうとしているのを承知しながら、それでも彼は低姿勢に対応する。
「そうでしたか。では、わたくしからお詫び申し上げます」
「・・・別に謝らなくてもいいよ」
「そういっていただけると幸いです。この大岡も、なにぶん職に就いて間もないものですから彩邑様も長い目で見てやっていただけると助かります」
 佐々木が頭を下げるのを見て、大岡と呼ばれた女性文官も慌てて倣う。
「手続きの間は隣の部屋でお待ちください。今、お二人手続きにいらっしゃっているので、お時間をいただきたいのです。・・・何より、彩邑様が二月も給与の受取に
いらっしゃらなかったので、給金と報奨金の計算も・・・」
「・・・分かった。待つ」
 手短に言い捨てて、蜜は踵を返す。完全な敗北だった。
 その背中に、佐々木が会心の笑みを向けたのを、彼女は知らない。

「あんれま、おみっちゃんも雪隠詰めかい?」
「相変わらずの仏頂面ねぇ。ほら、笑え笑え」
 八畳の部屋にいた二人の先客は、蜜を認めるや口々に言いたいことを言った。
 前者は、洒脱な二十四・五の男。
 後者は、気丈さが伺える三十くらいの女。
 中央に置かれた縦長の机に書類の束がいくつも積まれ、筆記道具類も散乱している。二人とも両手は空いており、休憩か怠けているかのどちらかに見受けられたが、
おそらくは後者だろう。男のほうなど無作法に両脚を机に乗せており、腰掛けた椅子は危うい均衡に保たれている。
 蜜は無言で男に近づくと、ごく自然な動作で椅子の脚を蹴り飛ばした。
「あ痛ッ!」
 派手な音を立てて、男は横倒しになった。
「勝手に人のことをそんな風に呼ぶな。伊凪(いなぎ)
 吐き捨てるように蜜が言うと、女が反論する。
「あらぁ、あたしら二人とも伊凪なんだけど。氏じゃなくて、名で言ってくれなきゃ」
「そ、そうだぞぉ。痛いぜちくしょう・・」
頭をさすって援護にでる男と面白そうに腕を組む女とを見比べ、蜜は言う。
「名なんて知らなくても顔で判別してるし、氏さえ把握すれば問題ない。・・・正直、別にどうでもいい」
 面倒臭そうに顔を歪める蜜に、二人は口々に文句を言う。
「本当にあんたって失礼だねぇ。まったくあたしは傷ついたよ、二年近い付き合いだってのにさ。ねえ、直孝(なおたか)
「同感だ、お由宇(ゆう(姐さん。・・・泣きたいぜ。というかもう泣いてるよ、俺の繊細な心は」
 二人とも芝居がかった動作で、胸に手を当てたり、両手で顔を覆ったりした。蜜はますます顔を歪める。
 伊凪由宇と伊凪直孝。
 彼女らは蜜の同僚の阿修羅使いだ。付け加えれば、彼女らは同じ氏を名乗りながらも血は相当に遠い。阿修羅使いとして奉職してから初めて互いの存在を知ったと、
蜜に笑いながら話したこともある。
 阿修羅使いは血統によって生まれる。氏は五つ。曰く。
 彩邑(あやむら)
 伊凪(いなぎ)
 雨羅(うら)
 荏砂(えすな)
 御灯見(おとみ)
 阿修羅使いは例外無く五つの血統のどれかに属しており、蜜が言う通り、氏さえ分かればさほど困らない。五つの血統の互いへの微妙な感情や力関係を理解しておけば、
更によいのだが、蜜はそのことに対してはどうでもよかった。
 但し、五つの血統に限定される彼らはどうしても奉職先に同じ氏が集中するので、氏で無く名で呼び合うのが常であり礼儀なのが事実だ。
 蜜の無礼が許されているのは、阿修羅寮だからだった。阿修羅寮には権威や伝統を重んじる人間はほとんど来ない。
 元来、阿修羅使いは大名や貴人などの
側仕えとして重用されており、評価も高い。長い歴史で彼らとの関係は断ち切り難く、公的な立場や金銭面での援助も無視できない。
 一方で、阿修羅寮は今上帝が創設した若い機関であり、「外れ者」の取締りを主にし働きに応じて給与が増減するという勤務体系の特殊さから、阿修羅の血統からは
どうしても軽んじられている。
故に、人員を割く比重は明らかだった。それでも今上帝への忠誠を示すために、五つの血統からは必ず定数の人員を送り込むのが現在の通例となっている。この制度すら、
一定の期間の後は交代要員を出すことにしているのが現状で、自ら阿修羅寮に奉職するのは相当な変人と認識された。
伊凪の由宇と直孝は自ら奉職した阿修羅使いであり、むしろ伝統を厭う側だ。だからこそ蜜ともこうやって話すし、二人が気さくな性質であることは蜜自身ですら認める
ところだ。・・・彼女が言葉にするときは、「お節介」になるのだが。
 蜜は、延々と続きそうな芝居に幕を下ろすかのように、空いている椅子へわざと粗雑に座る。みしりと椅子が悲鳴をあげて軋んだ。
 見せつけるように舌を出して、由宇は机の上の書類をつまむ。
「ここに来たってことは、あんたもとうとう年貢を納めたってわけだね」
「・・・何だって?」
「だからぁ、これを書きに来たんじゃないのかい?」
 由宇の指の動きに合わせ、ひらひらと、余程の達筆なのか見たまま悪筆なのか判別しかねる字がつらつらとしたためられた書類が左右にゆれる。
「報告書さ。同時に業務休暇の申請も兼ねてる」
「書かないね。そんなもの」
 切り捨てる蜜に、直孝が問う。
「おみ・・・、そんな眼で睨むなよ」
 眼の力だけで呪い殺せそうな迫力で睨まれ、直孝は降参とばかり両手を挙げる。助けを由宇求めようと横目で見ると、彼女の涼しげな両目には「小娘にびびらされるなんて、
情けないねぇ」とありありと浮かんでおり、空咳を数回して、本題に戻る。
「えっと、ここがどんな部屋か解ってて来たんじゃないのか。俺は『雪隠詰めかい?』って訊いたろ?」
 蜜は周囲をくまなく見渡し、たっぷりと考えた後に無表情で答えた。
「ここは厠じゃないだろ」
 瞬間、しんと空気が静まり、間を置かずに何かが爆発しそうな緊張感が張り詰める。とりわけおかしくなったのは、同僚二人だ。
 由宇は机に突っ伏して体を震わせていたし、直孝は唇とひくひくと戦慄かせていた。
 何かを抑えつけようと無表情を強いながら、直孝は怪訝そうな蜜に説明をする。
「『雪隠』ってのは、まんま『厠』じゃなくてだね・・・。この部屋は最近報告書をあげるために使われててさ、特に俺達みたいな給金受け取るだけ受け取って報告書を
あげない常習犯を詰め込むために使っているんだ。ほら、よく言うだろ、逃げ場のないところに追いつめることを『雪隠詰め』って。」
 蜜の頬が朱に染まるのを見て、直孝は言いにくそうに続ける。
「だから、報告書をあげるためにこの部屋に押し込まれることを、通称『雪隠詰め』って・・、ふがぁッッ!」
 書類の束を顔面に叩きつけられ、直孝は再び床にひっくり返ってしまう。それを契機に由宇は大きい声で笑い出した。何度も何度も机を叩きながら。
「帰る!」
人徳か力関係の差なのか由宇には報復せずに言い捨てて、倒れている直孝を思い切り踏みつけて蜜は戸へと向かう。被害者の呻き声が後を追った。
戸に手をかけようとすると、先に戸の方が動く。先手を取られた蜜は、自分よりもやや上にある相手の顔を見るや僅かな隙間から抜け出そうとした。
 だが、相手は無駄のない所作で部屋に入りながら後ろ手で戸を閉め、なおかつ体で戸を覆い逃げ場を封じてしまう。
 強引に通るには、相手が悪い。隙が無さすぎた。
「久し振りね、彩邑蜜」
「・・・茅町(かやまち)紗依(さえ)
 門番は蜜の天敵だった。


/後編に続く

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