阿修羅にして花の如く


後編/

「お休みなさい。・・・良い夢を。」

肆/
 茅町(かやまち)紗依(さえ)はどこまでも彩邑蜜(あやむらみつ)と対照的だ。
切れ長で小振りな顔の造形を、大和人特有の黒い髪と瞳がさらに引き締めている。
 同じ衣装ひとつをとっても紗依は見本と呼べるような着こなしで、唯一他の女性職員と違う部分は洋風の下履きを取り入れているところだけ。若い娘が
男のような真似をと年配の職員達からは眉をひそめられているが、それすら精力的な仕事振りで黙らせていた。
 大和人離れした容姿と規則破りの悪評高い蜜とでは、共通点を探すほうが難しい。さらには本人たちもお互いを天敵とみなしているので、より違いが
浮き彫りになっていく。
 茅町紗依は阿修羅(アスラ)使いではなく、文官だ。武官の蜜とは立場も違う。
 正確に言えば、呪部省夜叉寮(じゅぶしょうヤシャりょう)付き文書官であり、夜叉寮内で書類作成や事務処理を主に行う役職である。だが、現状で云えば、彼女の正式な役職を
正確に把握している者は片手で数えられるほどだろう。
 呪部省は、陰陽寮(おんみょうりょう)呪禁寮(じゅきんりょう)・阿修羅寮・夜叉寮の四寮で編成されている。科学的、呪術的側面からの活動が主な業務である為、特化された知識や
技術を持った人間が集まる。その人間たちを支援する側の文官たちは、彼らの技術や事情を理解したうえでの仕事が求められるのだが、これが相当に
難解な問題だった。
 ごく一般的な家からの文官たちは、自身の常識で測れない『よくわからないもの』を相手にせねばならず、四寮の名前の由来となっている陰陽博士(おんみょうはくし)
呪禁士(じゅきんし)・阿修羅使い・夜叉遣いの専門職の人間は何かしら常人とは違う常識で動く場合が多いのでそれも負担となる。
 文官として入寮した新人の四割がおよそ一年以内でやめるのが実情だった。
 そのような中で、両親それぞれが阿修羅と夜叉の血統の出身である茅町紗依は、夜叉寮と阿修羅寮の間での諍いの仲裁に入ったことからその背景と
勤務態度を買われ、両寮の間の取持ちを半ば押しつけられる形で引き受けた。
 本来の職務に加え、阿修羅寮内での書類作成や事務処理にも係わることも多く、文官としての位こそまだ低いが、入寮三年と半年で中堅の職員以上の
仕事量だ。
 紗依が忙しいことは分かっていたので、待ち伏せはおろか鉢合わせもないだろうと踏み、蜜も構えずに出仕したのだ。
 何故ここに茅町紗依が現れたのか、蜜は訝しんだ。
「会いたかったわよ、彩邑」
 言葉とは裏腹に紗依の声は冷たい。対して蜜も怯まない。
「茅町、こうも時機よく現れるなんてわたしを付け回していたのか?余程仕事が無いらしいな」
 蜜のあからさまな挑発には乗らず、淡々と紗依は返す。
「あなた達みたいな常習犯がいるお陰で仕事が山のようにあるから、毎日あちこち走り回されているわよ」
 紗依が『あなた達』と強調しながら奥にいる伊凪(いなぎ)由宇(ゆう)直孝(なおたか)を見遣ると、二人は首をすくめた。
「勿体ぶるのは性に合わないから種明かしをすると、出不精のあなたでも給与は本人しか受け取れない規則がある以上は出納所に来ざるを得ない。
だから、あなたが来たら時を問わず必ず私に知らせてくれるよう佐々木(ささき)さんに頼んでいたのよ」
 出納係の能面顔を思い浮かべ、蜜は舌打ちした。
 後ろの戸に体重を預け、紗依は宣言する。
「彩邑蜜、今日は報告書と業務休暇申請書をふた月分書いてちょうだい。書き終わるまで私はここを動かない」
「・・・茅町、こっちにはそんなことで足止めされるほど時に余裕はないんだ。書類仕事ならあんたら内勤組が担当だろ」
「報告書をあげるのはあなた達の義務でしょう。私達の仕事は確かにあなた達の後方支援だけれど、あなた達が義務を果してくれるのが前提での話。
当たり前のことをしてくれないなら、こちらも支援はしない」
 すうっと、蜜の瞳が陰る。殺気めいたものが漂い始めた。
「力に頼ってここを出るって選択もあるんだぞ、茅町」
「へぇ、出来るの?あなたに」
 蜜は嘲笑した紗依の襟元をつかんで、捩じり上げる。脅しではないと示すため、力を徐々にいれていく。紗依は紗依で、蜜の手首をつかみ力を込める。
その顔は涼しげで、喉を絞められている苦痛を感じさせない。
乱闘に発展しかねない彼女らの間に由宇と直孝は止めに入らず、むしろ、怒りをあからさまに出している蜜こそ余裕がないと冷静に判断していた。二人の
若い同僚は戦闘の場数こそ踏んでいるものの、こうした一種の駆け引きめいたものは苦手だった。蜜の内面にこそ踏み込まないが、彼らはおそらく蜜自身より
彼女のことを分かっていた。
そして、それは的を射ていた。蜜が折れたのだ。
 つかまれた手を振り払い、唇を固く噛みしめて紗依を睨む。
 紗依は乱れた襟元をそのままに、さきほどまでの険悪さを感じさせない口調で、あくまでも静かに説く。
「一回の任務につき、最低5日の休暇をとること。これはあなた達阿修羅使いの事情を取り入れた規定でしょう。・・・あなた、このふた月でもう外れ者の
取締りと外れ夜叉の処理をこちらで把握しているだけでも十件近くしているわね。でも、公にしていないのを含めたら、五・六件はいっている。しかも、まったく
休んでいない」
「・・・・見てきたように言うじゃないか。本当にあんた、わたしを付け回しているんじゃないだろうな」
「茶化さないで」
 溜息を吐いて、紗依は言う。
「私は別にあなたのやり方を否定しない。あなたをそこまで生き急がせるものに踏み込むつもりもない。自分が大人だと言うのなら、彩邑蜜、私にも私の
したいことをさせなさい」
 すとんと、目に見えて蜜の両肩から力が抜けるのが分かり、由宇と直孝もいつ動いてもいいようにと張っていた力を抜く。
 紗依が駆け引きに長け、蜜が力を持たない相手に対しては阿修羅を引っ張り出さないことを固く己に戒めていようとも、万が一ということはある。同時に、
何も無くとも噂がたつだけで致命的だ。
 阿修羅使いが、力を持たない相手に阿修羅での刃傷沙汰とは醜聞だ。職場で、しかも帝のお膝元での騒ぎになれば、蜜が彩邑最後の阿修羅使いであろうとも
処分は免れない。蜜の後見役を引き受けている御灯見(おとみ)の家も、庇いきれない。
緊張から解放され、空気がわずかに緩む。
 襟元を直しつつ、先ほどの嘲笑とは違う笑みをみせ、俯いたままの蜜へと紗依は問う。
「それとも、実力行使にでる?確かに私は阿修羅も夜叉も持たないけど、強いわよ」
 蜜が面をあげる。
「やるだけ時間の無駄だね、勝つのはわたしだ。でも、今日はやらない」
 不敵に笑んで即答し、踵を返して机に向かう蜜の瞳にもはや陰りはなかった。
 再び椅子に乱暴に腰を下ろし必要な筆記道具を手元に寄せると、直孝は蜜の肩に手を置き囁く。
「おみっちゃん、仲間同士仲良くやろうがぐぁッッ」
 言い終えないうちに、直孝の顎を蜜は殴り上げる。衝撃でまたしても椅子から転げ落ちた。
「あんたも懲りない男だよ」
 由宇が倒れた同僚へと、書損じを丸めて投げつけた。

伍/
 自由の身になり、給金を紙幣化して大内裏を出る頃には、日もかすかに傾いていた。
 あれから集中して作業にあたったのでふた月分の書類は一時と三刻程度で片付き、「ひと月は体を休めろ」と紗依のお達しもでた。どうせ十日と持たない
だろうとお互いに分かってはいるが、結果ではなく過程が求められているのだから、今回はこれが最善だ。
同じことがまたあれば、またその時のことだろう。
紗依はまだあの部屋にいる。
由宇と直孝の作業がまだ終わらないからだ。
これならどうだいお紗依ちゃん、書式がなってません書き直してください、今度はどうだい、誤字脱字が多いです書き直してください、もう書けません勘弁
してください・・・。
延々と繰り返される問答は無間地獄のようだった。
紗依は自分の書類仕事を全部あの部屋に持ってこさせ、判断が必要なことは使いを立てて指示をだした。
更に、由宇が「小腹が空いたねぇ、ちょいと屋台を冷やかしにいこうかい」と席を立てば、「差入用に私が作った団子があります、どうぞ」と重箱を取り出す。
また、直孝が「ちょっと厠に・・・」と言い出せば、「これを使ってください」と桶を差し出す。「いやいやいや、男の証をご婦人方に見せるわけには・・・」と
盛大に首を振ると、「ご遠慮なく。私も使います」と絶句させる。青い顔で直孝は作業に戻った。
そうして、隙をついて逃げ出そうと二人を悉く止めた。
もしかしたら、あの三人は一晩あの部屋にいるのかもしれない。
大内裏の大門をくぐりつつ、素早く垂衣を頭巾のように巻いて頭部を覆う。大内裏の中では蜜も隠さないが、市井を移動するときはさすがに必要になる。
 異人の如き彩りの髪と瞳、異相は彩邑の血族独特のものだ。
 他の四つの血族には見られない特徴で、祖先は渡来人らしいというのが通説でおそらくその通りなのだろうが、家系図や縁起などの記録は六年前の戦で
焼失してしまった。もう、知る術もないだろう。
 彩邑は異相を理由に他の大和人からは奇異の目で見られ続けたため、自然と他を寄せ付けない排他的な性質を持つようになった。同じ阿修羅の血統でさえか、
彩邑を異質とみなし、彩邑もまた拒絶で返した。
 元来、血で能力を受継ぐ阿修羅の血統は血族婚を尊ぶ。他の血統と、絡み合う糸のような婚姻を結び、家を永らえてきたのだ。
 ところが、彩邑は他の血族さえ拒んだ。同じ阿修羅の血統とはいえど、その始まりが起因するのか、他家からの婿や嫁の送り込みは勿論、受入れさえ拒絶した。
 そして、自らの胎内のみの婚姻は悲惨な結末となった。
 まず、肉体と精神のいずれか、あるいは両方に欠損を持つ子が生まれ始めた。
 やがて、女性が生まれなくなり、どうにか生まれても子を孕まずに死ぬ。
 とうとう、親兄弟に関係なく契るところとなり、行く末は閉ざされた。おそらくは二十年と時を置かず、腐敗しきって消え去る定めであっただろう。
 けれど、時による終末を待たず、幕は下ろされた。
 六年前の戦が起こり。
 一族の大部分が死に至り。
 五年前に兄が死に。
 蜜は、一人だ。
 探せば、彩邑の生き残りはわずかながらにいるかもしれない。だが、兄が死んだ時に蜜は一人になった。兄以外はいないのも同じだった。
 今は、すこし違うけれど。
 家に戻る前に、少し遠回りになってしまうけれども菓子屋に寄る。店先から漂う、砂糖や小豆の甘い匂いに、蜜は眉をしかめた。
「いらっしゃいまし」
 見慣れた老爺が挨拶に現れ、これはこれはと目を細めた。いつもの、と蜜が言葉少なに注文すれば、老爺も手早く饅頭を包んだ。代金を手渡すや立ち
去ろうとする蜜に、仲が良ろしゅうございますな、と老爺が言えばますます眉間の皺が深くなる。逆に老爺目はますます細くなっていった。
 大内裏をぐるりと囲む武家屋敷群の外れに、蜜が借り受けている家がある。重々しく構えられた他の屋敷とは違い、町家にあるような程度のものだ。
 小振りな門扉を通り引き戸を過ぎると、玄関の上がり端で青年が待っていた。
いつから彼はそうして待っていたのだろうか。
答えは蜜自身がよく知っている。絶対に蜜が家を出てから三時近くをずっとそうしていたのだ。
正座をして、床に手をつき、顔を伏せている。蜜の位置から伺えるのは金茶の髪とつむじだけだ。
衝突したあとは、いつもいつもこうやって蜜の帰りを出迎える。どれほど蜜が理不尽かつ一方的に彼を責め、なじり、殴っても、それは変わらない。
「帰ったぞ」
 蜜の端的な言葉もいつものことだ。蜜から声をかけるのが手打ちであり、そうしないと「許し」がでるまで、彼は同じ姿勢でいつまでも待ち続ける。過去に三日三晩
そうしていたこともある。蜜は実行に移す気は毛頭無いが、「許さない」限り、永遠にそうするのだろうという確信があった。
「お帰りなさい、蜜」
 春雨のように、柔らかく静かに蜜を包み込む声。遠くなく、近くもない過去に失ったものを思い出させる声。
 ゆっくりと上げた面は大和人にも異人にも見えるもので、瞳は髪と同じ金茶。煌めく色合いに紛れることのない、聡明さと優しさとを湛えている。外見では二十三・四の
青年だが、いささか穏やかすぎる微笑み方のせいで、老人のような印象を持つ。
 青年の名は空穂(うつほ)と云う。
 彼は蜜の阿修羅だ。

弐/
 上段から振り下ろそうとした刀の重みが消え失せたと蜜が気付く前に、その華奢な手首は後ろから固く拘束された。
「っ!」
 腕を振り上げた状態で、さらに相手は頭一つ分以上も身の丈が上なので、辛うじて爪先がついてはいるが、状態は宙吊りに近い。
「蜜、落ち着いてください」
 器形(きけい)から人形(じんけい)へと転じた空穂は主人の暴挙を止めるべく、蜜が体をばたつかせて抵抗するのをどうにか抑えて説得する。
 蜜の唇の近くにあった痣は無くなっていた。痣は阿修羅が器形をとっている間のみ現われるものであり、空穂が人形となった瞬間に隠れたのだ。
「空穂ッ、放せ!」
「それはできません。放せば、あなたは夜叉遣いを殺してしまう」
「それがどうした?!」
「必要ありません、よく見てください。夜叉はもう消えている」
 水の牢屋に幽閉されていた異形の猿はもういない。水の柱も消えていた。夜叉が消失したのを確認してから、空穂が水流を止めたのだ。
「夜叉が消えたのは、主の戦意が失せたからです。もう夜叉遣いに戦う意思はない」
 空穂はそう言ったが、夜叉遣いは意思がないという程度の状態ではなかった。へたり込んだ夜叉遣いは、その姿勢のまま気絶していた。完全に心が砕けていたのだ。
 夜叉は消え、夜叉遣いは気絶。その事実を認めても、蜜は抵抗する。
「だからどうしたと言っている!こんな奴は殺す!そうしなきゃいけないんだ!」
 金切り声で喚き、蜜は年端もゆかない子供のように暴れる。いや、もう子供でしかなかった。いやだいやだと、それだけを繰り返す。
 掴んだ手首から血の気が失せていくのを感じ、空穂は蜜を地に立たせてから体を抱きすくめた。その作業の間にも、蜜は空穂を殴り蹴り引っ掻く。
「やめてください。それ以上力を使ったら貴方は・・・」
 それ以上を言ってしまえば現実になってしまう気がして、空穂は唇を噛んだ。苦悩に顔を歪ませる空穂を知らず、蜜は止まらない感情の波を阿修羅に向けた。
「空穂、お前はいつもそうだ。わたしが殺すつもりで力を使っても勝手に威力を無くして邪魔をする!」
「蜜、私は・・・」
「わたしは死ぬことなんて怖くない!」
 蜜の言葉に、空穂は凍り付いて力が一瞬緩む。その隙をつき強引に体勢を入れ替えた蜜は、空穂の頬を張った。頬には血の筋が数本走っている。拳から平手に
なりきらないうちのことだったので、曲ったままの指の爪が傷をつけたのだ。
「お前は阿修羅だろう?わたしが力を使って喜びこそすれ、邪魔される謂れなんてない!」
 刃そのものの蜜の言葉に傷ついた空穂は、自分の想いを伝えることが出来なかった。
 それはひとつの現実であったからだ。
 阿修羅は人ならざるものであり、正しくどんな存在であるかは分からない。阿修羅である彼らもまた語らない。確かなことは、彼らは咎者(とがもの)であることだ。
 阿修羅には「年季(ねんき)」と呼ばれる「阿修羅として存在しなければならない年数」が決められており、阿修羅それぞれに期間は違う。年季の間、彼らは人間に従属
しなければいけない。
 阿修羅使いの血統に生まれた人間に呼び出されて主従の契りを交わし、主の武器へと転じて力を与える。従属は絶対であり、主から契りを破棄できても阿修羅
からはできない。
自身がどれだけ粗雑に扱われようと、阿修羅は主を裏切らない。否、裏切れない。人間に奉仕することが、彼らに与えられし罰ゆえに。
 解放されるのは、契りの破棄か主の死によってのみ。その後、次の主の待つことになるか、年季明けとなるのかはその阿修羅による。
ただし、阿修羅たちも無償で服従を誓うわけではない。主が使った阿修羅の力は阿修羅の年季を減らす。主が力を振るえば振るうだけ、年季明けが早まるのだ。
 そして、阿修羅の力を使うには、主自身の生命が必要となる。力の大小は、失われる生命に比例する。阿修羅の力を使えば使うだけ主の生命は削がれ、阿修羅は
解放の時と年季明けを早める。
 阿修羅使いは、いつ尽きるとも知れぬ自らの命数を代償に力を振るう。もしかしたら明日、もしくは力を使っているその時に死が訪れるかもしれない。それは時に、
阿修羅を苦しませるものとなる。
 阿修羅にも感情はある。執着もある。主と離れたくないと、共に在りたいと願う心があるのだ。
だが、主の生命を奪う阿修羅だからこそ、共にいる。心寄せる主と出会った時、阿修羅はその罪を知ることになる。
蜜は自身をかえりみずに力を使う。彼女が自身で言ったように、死が怖くないのではない。生命が惜しくないのでもない。
空穂には分かっていた。・・・蜜は、死にたいのだ。
 死んだ兄への自責から自殺をすることが出来ず、それでも死に焦がれて選んだ緩慢な自殺だ。
 空穂は蜜を思い止まらせる術を持たない。空穂が蜜を失いたくないのだと、何度誠実に言葉を尽くして伝えても彼女は信じないだろう。
 それだけの痛みを、傷を、かつて空穂は蜜に与えてしまったから。
 空穂は罪の只中で、足掻きもがくしかなかった。
「・・・どうした、言いたいことがあるならはっきり言え!」
 真直ぐに問う蜜に正面から答えられず、空穂は目を伏せる。固く握りしめ、震える彼女の拳を見ながら押し黙った。
 それ故、彼は見過ごした。目をそらし語らぬ彼の態度に、蜜の瞳は涙で潤んだ。悔しさか、悲しみか、あるいは空穂への想いからか。彼女は傷ついたのだ。
 涙がこぼれぬうちに、蜜は空穂の頬を張った。されるがままの空穂にまた傷ついて、溢れそうになる涙を見せまいと、背を向け歩き出す。
「・・・気が削がれた。帰る!」
 しばし立ち尽くしたあと、空穂は放ったままにせずに夜叉遣いを肩に担ぐ。近くの警察に届けなければならない。蜜の目的がどんなものであれ、彼女は奉職者で
外れ者の取締りが仕事であり、その大義名分があるからこその自由だ。
 蜜を守ろうとするなら、彼女の仕事も守らねばならない。
 空穂は歩き出した。
 この時はまだ添うことしかできなくても。

陸/
 あれは、もう、一昨日のことになる。
 あれから、阿修羅の力を使い過ぎたことによる疲労と移動での消耗とで丸一日近くの時を、蜜は眠り続けた。
 ひどい眠りだった。
 血と炎が混ざり合う悪夢に繰り返し苛まれ、夢だと自覚しながら体が起きることを拒否し、ようやく現実に浮上したと安堵すれば、再び悪夢の腕が絡みついてきた。
 時折、昔兄と一緒に遊んだ小川にいる夢も見た。そこでは、蜜も兄もあの時のままで笑っていた。兄は愛おしそうに蜜の頭を撫でてくれ、苦しみも痛みも何一つなく、
兄の手のひらの温かさと優しく触れる水の冷たさが救いだった。
 悪夢と願望の夢を過ぎようやく現実に戻ると、今度は、空穂との気まずさがあり、給金の受取を理由に外へ出た。着付けや草履の用意をかいがいしく続ける空穂とは
まともに目をあわせないままに。
 「手打ち」を済ませて、微笑んで蜜を見上げる空穂をまともに見返せずに、乱暴な動作で彼女は草履を脱ぎすてる。大股で上がり端に足をかけたとき、ちょうど空穂の
横顔が目に止まった。
 ばらばらになった草履を整えようと身を乗り出した空穂の顔を、蜜は強引に横に向かせた。
「蜜?」
 空穂の問いかけに、蜜は頬を指先でなぞることで応えた。
 輪郭に沿い、探るようになぞる。顎までたどると、また戻ってと繰り返す。
「・・・傷」
「傷?」
「傷、もう治ったのか」
 一昨日の引っ掻き傷のことを気にしているのだと解り、空穂は蜜が気に病まないようにと穏やかに答えた。
「私は、阿修羅ですから」
「・・・・・」
「すぐに消えてしまいます」
 微笑みながら答える空穂の言葉に、蜜は引っかかるものを感じた。そして、腹立たしくなった。
――わたしを気遣うつもりだろうが、自分を蔑ろにしているじゃないか。
 唇を噛んで言葉を封じ、代わりに手にした饅頭の包みを空穂の膝に放った。
「土産だ。食え」
 どすどすという音と振動を共に、蜜は床を蹴るようにして去ってしまう。膝に乗せられた包みを宝物のように抱えて、空穂が後を追った。
 甘い物は匂いも駄目な蜜が、それでも空穂の為にと買ってきたものだ。空穂には黄金細工よりも価値のあるものなのだ。
 廊下に点々と脱ぎ捨てられた足袋や帯に単を回収し、居間に着くと、蜜が小袖を留める紐を解いているところだった。衣擦れの音を残して、小袖は床に落ちる。
 長襦袢だけの姿になった蜜は簪を抜いて髪をかき回しながら、続き部屋の襖を開けて入ると横になってしまう。回収した衣装を衣桁に掛けながら、空穂は尋ねた。
「夕餉はどうしますか?」
「・・・起きたら食べる」
 言い終えた端から、蜜の寝息が聞こえ始める。油の尽きた灯台の灯りのように、明確な切り替わりだ。
 薄い掛け布団を押入れから取り出して、空穂は柔らかく蜜の体に掛けた。膝を抱え胎児の如く丸くなり眠る蜜は、何かから必死に自分を守ろうと
するかのようだ。
 乱れた髪を手櫛で梳いてやり、空穂は優しく蜜の頭を撫でる。昨日、悪夢に苛まれている蜜にそうしていたように、繰り返し繰り返し撫で続けた。
 どれくらいそうしていただろう。
 傾いた陽はとうに沈み、灯りをつけない家の中は闇が支配している。
 一時でも三時でも、蜜が起きる直前まで空穂はこうしているつもりだった。 ふいに、蜜の手が何かを探そうと動く。畳を何度も探り寝返りを打つと、ようやく頭を
撫でる空穂の手に気付いた。そして、その手をすがりつくようにして握り締める。
 蜜はしきりに唇を震わせていた。声にならない唇の動きを、空穂は読んだ。
 どこにもいかないで。ずっと、傍にいて。
 空穂に対して言っているのではない。そう苦しいほどに理解しながら、心を注いで空穂は答えた。
「・・・大丈夫、ここにいます。私は決してあなたの傍から離れません」
ほうっと息を吐くと、眠る蜜の瞼から涙がこぼれて伝う。安心からか、握る力が弱くなった蜜の手を今度は固く空穂が握りしめた。
 そして、そっと囁く。
「お休みなさい。・・・良い夢を。」


/了

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