フラグメント22
Episode19: Nameless Sun



昔、剣なる神常世より現れり。
ヒトを護らんとする性故、剣なる神我らを悉く斬り捨てり。
ヒトも又彼の神より授かりし剣にて我らを苦しめり。
我らの慟哭同胞の血で染まりし地揺るがせて、常世より新たな神来訪せり。
彼の御方我らがヒカリとなれり。
これなる神をアマテラスと呼ぶこととなれり。

―― 妖に古くから伝わる口伝より抜粋。



 銃声が尾を引きながら木々に吸い込まれていく。固い破裂音は、わんわんと不快な耳鳴りを引き起こして山中を走り抜けていった。
 男は舌打ちして、新たな銃弾を猟銃に補充した。背中を杉の雄大な幹に預けて狙いをつけつつ、周囲の気配を探る。
 夜はねっとりと濃く、男の身体や精神を蝕むようだ。風が流れて葉や枝が揺れる度に怪物が襲い掛かってくる幻覚に襲われ、危うく引き金を引きそうになる。
 心臓は内部から破裂するほどに脈打っているのに、頭のてっぺんから足の先までは凍えるほどに寒い。かちかちと歯がぶつかる音がする。
 ――どうしてこんなことに。
 幾度も繰り返し問うたことを、男はまた問うた。
 ――週末の秘密の楽しみに来ただけなのに。
 その楽しみが引き寄せた因果の糸だとも気付かないで。
 男は、日頃の鬱憤を趣味の狩猟にぶつけていた。野鳥、兎、狐、猪。獲物を、男を悩ませ苛立たせる奴らに見立てて。
ゴミ出しに口煩い近所の老婆や、満員電車で決まって男を押しのけて座席に座る女子高生、男を汚いものでも見るかのように嗤う同僚たち、難癖をつけてくる取引先。
びくびくと日頃身を潜めている自分が、生殺与奪を握る快感。猟銃を構え、引き金をわずかに引くだけで、自分は神になるのだ。哀れな、鬱憤晴らし程度にしか使えないイキモノ達の。
だが、快楽に恍惚となるほど、男の飢餓は膨れ上がっていった。
狩猟は正式な手順があり、様々な制約が男を縛る。定められた期間を、定められた範囲だけで・・・・、挙げたら切りがなかった。
出来得ることなら、仕事が終わった先から山に籠り手当たり次第に獲物を追い回したい。いや、ずっとここで君臨し続けたい。
世間では狩猟は残酷だと非難する。
猟銃も、銃弾も、狩猟用の装備を揃えるのにも、遠出をするのにも、金はかかる。その為には苦しみに耐えて働かなくてはいけない。
日本は許可の無い銃の所有は犯罪だ。違反すれば、犯罪者だ。
倫理、経済、法律。すべてがそれを許さない。
男はそれを可能にする魔法はないかと、すがる思いでインターネットの電子の海を泳ぎ、ようやく魔法が息づく場所をみつけたのだ。
いわゆる裏サイト。
そこには、「狩り」の欲望を赤裸々に語り合う人間たちの魔窟だった。
サイトの会員達はシーズンを無視して週末ごとに乗合いの車両を出し、野生の動物が数多く生息する山に繰り出す。禁猟とされている場所や、保護指定の動物を積極的に対象として
いた。
場所や動物、仕留めた弾数、体の部位、細かな点数制を取った団体戦・個人戦でのランキング。上位ランカーは名誉と称号、会員達の尊敬が与えられる。
なかには、彼らが狩りだした獲物を目当てとしている会員もいた。剥製マニア、解剖マニア、・・・流血で負の欲望を満たす性質の人間たちだった。
 ここでなら、男も異端ではなかった。数多い中の、多数派の中の、たった一人に過ぎない。  ここでなら、男は存在を許される。存在を許されること。それは、何より男が望んでいたものかもしれない。
 ならば、誰に許されたいのか。それは男にしか解らない。
 今日も、夜に紛れて男達は関東の某県の禁猟区の山に繰り出した。車中では、細やかなルール確認に始まり、愛用の銃の自慢が互いを駆り立てていた。
 特に、首位を争う上位ランカーが集まったこともあり、今回の勝敗が今期のチャンピオンを決めることになるだろうというのが、一種の興奮を生んでいた。
 それ以外は、確かにいつも通りの流れだった。だが、運命とはいつも通りに見えるところから既に変容しているものだというのも、周知のことだろう。
 ハイキングコースの限界まで車で侵入して猟犬を放そうとしたが、どういうわけか犬たちは怯えて出てこない。この日の為に適度に飢えさせており、普段なら血を求めて我先にと駆け
出していくはずである。
 首輪を掴み怒鳴っても宥めすかしても、犬たちは心細げな鳴き声をあげるだけ。五分ばかり立ち往生したところに、それは現れた。
 最初に気付いたのは、今日のメンバーの中でも最年長の男だった。
「ありゃあ、何だ。野犬か?」
 指差す先、並ぶ木々がそこだけぽっかりと空いた一角にそれはいた。男達が一斉に持っていた携帯用ライトを集中させた。強烈な光量によって、鮮やかに全貌が浮かび上がる。
 月光と人口の光が照らす毛皮は黒一色。眼は金色に輝き、堂々と佇んで真直ぐ男達を見据えていた。体長は二メートル以上はあるだろう。
「まさか・・・狼?」
 誰にともなく漏らした男の呟きは、他の男によって受け継がれる。
「そんな・・・。ニホンオオカミは絶滅したはずだし、特徴も微妙にも違う。それより、・・・めちゃくちゃでかいぞ。軽く二倍近くはあるんじゃないか」
 誰もが動けずにいた。その雄大な体躯や美しさに視線を、いや魂すら奪われていたかもしれない。
 その静謐を破ったのは他ならぬ黒狼自身だった。月を仰ぎ、長く透き通るような遠吠えをする。谺が消失すると男達に背を向け、暗黒の森へと潜り込んでしまう。
「あ、行っちまうぞ!」
「追え、仕留めろ。あいつをヤッた奴が今期の王者でどうだ?!」
 口々にその案は賞賛を浴び、民主主義のもと可決された。男達は我先にと森の奥へと入り込む。
 そこまでが、わずか三十分前のことである。
 男達は適度な距離を保ちつつ黒狼を追跡した。・・・いや、誘導されていた。
 木や茂みに隠れたかと思えば、わずかな隙間に悠然と姿を見せる。躍起になっていた男達は置いて行かれまいと、森の奥からの縄に引き寄せられるように、深く深く迷い込んで
しまう。
 闇雲に追いかけては体力を消耗するだけだと、最初に言い出したのは誰だっただろうか。
 散開して、囲い込むように行動することになった。トランシーバーで連絡を取りながら、包囲網を敷くのだ。
 男達は全部で5人。等間隔で半円を造り、黒狼を威嚇。逃走経路を断って、追い込む。最終的な段階では個人プレーになるが、それまでは連携をとる。抜け駆けをすれば、獲物を
逃してしまうことになるから、皆に否やはなかった。
 異変は早くに起こる。
 方々に散り順番に連絡を回していったが、五番目の、半円の最右翼にいた男が二巡目で連絡を断ってしまったのである。
 近場にいた四番目の男が様子を見に行ったところ、残されていたのはトランシーバーのみだった。しかも、トランシーバーは奇妙なかたちに歪んでいた。
 下半分がでこぼこになり、伸びきっていたのだ。男は何故、こういうかたちになってしまうのか過去住宅火災を経験したことから察した。高熱で溶けてかたちが崩れてしまった
あとに熱が引くと、丁度この造形になる。
 この短時間にどうやったというのか。
 これはまるで灼熱の手で飴のように引き伸ばして、更にはそこから急速に冷やしたとしか考えられない不可解さだ。
 どうやって事実を伝えるべきか、消えた男はどこへ行ってしまったのか。悩みながら動けずにいるうちに、事態は見えざる手によって急速に進められていく。
 黒狼の唸り声と草が踏み荒らされる騒々しい音。続けての銃声。
 トランシーバーが混線して、瞬く間に混乱が伝染していった。
 とにかく合流しようとトランシーバーで呼びかけながら仲間がいるはずの区域に向かう。
 だが、トランシーバーの向こうからノイズの混ざった悲鳴が聞こえ、全てがもう手遅れになっていることを知らされる。
 男は孤立していた。
 何度、発砲しただろうか。
 茂みが揺れては撃ち、黒狼の唸り声が聞こえればそちらの方向に向けて撃った。
 今、こうして立っているのもやっとだった。
 ひいひいと、引き攣れた異様な音がすると周囲を何度も見渡せばそれは男自身の呼吸音にすぎなかったし、膝ががくんと折れて何かがぶつかってきたと慌てれば、それは恐怖から
くる震えにすぎなかった。
どんなかたちでもいいから、もう、解放してくれ。
 男が心から願った時、数メートル先の茂みが静かに揺れた。
 恐怖が見せる幻覚かと疑い、怯え、銃身を支える腕と引き金にかかった指が大きくはねる。
 男の思考、もしくは期待を裏切り、するりと闇を縫うように黒狼はその姿を男の前に晒した。二メートル超の体躯にも関わらず、その足取りは力強さより優美さを感じさせる。
 唸りに喉を震わせ、金色の眼は男を捕えて離さない。鼻筋は威嚇の為に皺が寄り、歯が剥き出しになっている。
 黒狼は怒っているのだ。
「うあああああーッ!」
 反射的に男は引き金を引いていた
。  弾道の先の黒狼は不動だ。このままでは確実に当たる。迫り来る危険を把握しながらそれでも不動だった。避ける必要がないと知っていたからだ。
 すべてはコンマの世界で決していた。
 銃弾は灼熱の手によって握りつぶされていた。
 いつの間にいたのか。男と黒狼の間に人が立ちはだかり、男に向かって拳を突き出している。
 拳を緩めた隙間から、炎がするりと零れ落ちた。それは地に墜ちるまでに消え失せる。
「痛いじゃないか」
 そう言って手首を大げさに振るう。
「だ、誰だ?」
 からからに乾いた舌が、ようやく動いた。声は裏返って、か細いものだったとしても。
 尋きたいことはたくさんあったが、口をついて出たのはそれだった。
 いつの間にそこにいたのか。数瞬前までには誰もいなかったはず。
 銃弾はどこにいったのか。目の前に立っている闖入者に当たっていなければおかしい。
 握りしめた拳から落ちた炎は。まさか、銃弾だというのか。
 あの、溶けたトランシーバーは。炎。
 闖入者の正体を確かめようと、男は目と耳とを総動員させる。しかし、感覚を研ぎ澄まそうとするほど、却って散漫になってきてしまう。
 男か、女か。子供か、老人か。声が何重にもなって反響している気がするし、体格はぐんにゃりと歪んでいるように見えていた。
「怪傑・赤ずきん。もしくは山の神の使いってところかな」
 律儀に答える闖入者。その足もとに、黒狼は身を寄せる。但し、その両眼は男を見据えて警戒を怠らない。
「この山の神様はお前らがやった虐殺に大変ご立腹だ。その代理として、こうして僕と狼が動いているわけだ」
 その人影は動けない男に近づいてくる。ゆらゆらと、陽炎のようにその姿がゆれている。
「一応言っておくと、お仲間ではお前が最後だ。山の神と違って、僕はお前に改心しろとは言わん。望んでもいない。ただ、どうしようもなく虫が好かないだけだ。これは僕の感情だ。
・・・お前には共感できるはずだぞ」
 男の腕の震えが伝わり危うげに上下左右に動いてしまう銃身に手をかけた。
「お前が近所の住人や同僚を嫌うように、僕もお前が嫌いだ。だから、これは」
 掴まれた銃身が赤く変色する。
「単なる弱いものいじめさ」
「こ、殺さないで」
 どろどろと溶け、天井から滴る鍾乳石のようになっていく銃身をぼんやりと見ながら、男は懇願した。発せられた熱の余波が頬に当たり、熱い。
「殺さないさ」
 あっさりとその人物は言った。男は、願望が聞かせた幻聴ではないかと疑う。男の心の動きを読んだように、その人物は繰り返し言う。
「殺さないさ。お仲間も殺していない」
 男はそろそろと安堵の息を吐いた。けれど、その人物は続けた。
「殺しはしないが、お前らは山の神や僕とも違う存在から裁かれることになる。ここで殺されていたほうが楽だったと思うようになるかもな」
 結局のところ、と繋いで。
「お前ら人間の敵は、同じ人間ってことさ」



「怖え人間達は姐さん達が追い払ってくれるからな。おーよしよし、心配すんな」
 少年は赤ん坊をあやすような声音で、近くにいる仔狐の頭を撫でてやった。仔狐も、甘えた喉声を出す。
 少年はもはや大人の男といっていいほど、体格も立派だ。リーゼントに、原色に染め抜かれたシャツとジーンズ。精悍な顔のパーツのなかでも、鷹のような鋭い眼光は際立っていた。
 自分も撫でろと、数匹の仔狐がシャツの袖を噛んで催促するのを気前よく応じてやる。強面の少年がにやけながら仔狐とじゃれ合う様は少しばかり異様だ。
 岩肌が剥き出しの洞窟の中、少年を中心にして、鳥に野鼠、狸や狐に兎など様々な動物が身を寄せ合っていた。この洞窟は山の頂上付近に存在しており、巧妙に入口は隠されていた。
緊急時にはこうして、山のあちこちから動物達が集まってくるのだ。
 ここでは争い事は禁止。普段の種族による捕食関係を持ち込んではならない。
 それが、山の長たる白毛老(はくもうろう)の取り決めた唯一の掟だ。
 故に、無法な人間が山を徘徊している現在はこうやって身を寄せる場所となる。彼らは息を潜めて白毛老が救援を頼んだ成果を待っているのだ。
 白毛老は洞窟の奥の、岩盤がちょうど台座のかたちに盛り上がっている場所に紫の座布団を敷いて丸まっていた。
 白毛老は齢九百を超える野狸の(あやかし)である。
 名が示すとおりに、もう体毛はほとんどが白くなっている。若いころは別の名で通っていたが、その名を知る者はこの場にはいない。知る者たちが常世へ旅立ち、最年長の妖となったが
故に、白毛老と呼ばれるようになり長となったのだった。
『アマテラス殿』
 白毛老は頭を上げた。声ならぬ声で、洞窟の入り口に立つ人影に語りかけた。
 軽く手を挙げ、赤いウインドブレーカーを着こんだ少女が年齢にそぐわぬ堂々とした足取りで黒狼を従えて歩いてくる。
少女は年のころ二十歳になるかならないかといったところだろう。綺麗な、という表現よりも美貌と呼んだほうが相応しい造作を持ち、絹糸のような髪をほつれの目立つ不細工な
三つ編みにしている。
「姐さん!兄貴!お帰りなさいやし!」
 少年は直立不動になり、洞窟中に響き渡る声で迎えた。聴覚の鋭い動物たちは堪らないとばかり首をすくめる。仔狐達は親狐のもとに駆け戻ってしまう。
「ういっす。帰ったぞ」
 繊細な美貌にそぐわない軽い調子で受け答える少女と黒狼が歩く先から動物達は移動して、道を作る。彼らは恭しく頭を垂れ、敬意を表した。興味深げにこっそり頭を上げて少女と
黒狼を見ようとした仔狐の頭を親狐が前足で押さえつける。
「トーリュー、もちっとボリュームを下げろ。耳が痛いじゃないか」
 少年の、頭二つ分上にある頭を少女はすれ違い様にぺちりとはたいた。
「へい、すいやせん!」
 更に大きな声を張り上げたので今度は回し蹴りを見舞う。
「・・・ご指導、あ、ありごとうごぜえやす」
 少年は腹部を抑え呻きながら、今度は静かに言う。おそらく痛みのために声が出せなかったのだろう。
 トーリューと少女に呼ばれた少年は、正確な名を東柳(ひがしやなぎ)和乃進(かずのしん)という。あまりにも長い名なので、少女に「言い難い」と言下に切り捨てられ、現在に至る。今まで一度も正確に名を
呼ばれていなかった。
 そして東柳はこの場で唯一の純粋な人間だった。
 少女と黒狼は白毛老の座す台座の前まで来た。少女はウインドブレーカーのポケットに手を入れたまま、端的に事の結末を言った。
「終わった」
『アマテラス殿。この度のこと、厚く御礼申し上げる』
 白毛老は自分より遥かに年少に見える少女に対し、鼻先をこすりつけるほど深く頭を垂れて謝意を表す。時間をかけたあと頭を上げて、今度は黒狼に向き直る。
優月(ゆうづき)殿にはアマテラス殿への口添えを感謝致す』
『白毛老、頭をお上げ下さい。私のような若輩者に対してそのようなこと』
 優月、と呼ばれた黒狼は逆に自身が頭を下げて敬意を表した。確かに優月は齢百年に満たぬ妖だったが、妖の中では<アマテラス>に渡りをつけられる数少ない存在として認識されていた。
 <アマテラス>とは妖にとって、特別な存在だ。気の遠くなるような昔、妖が常世と呼ぶ異界より訪れた<剣神(けんしん)>が人間の味方となって妖を狩り尽くそうとしたとき、それを阻止したのが
<アマテラス>だったのだと実しやかに伝えられている。
 <アマテラス>もまた異界の存在であったが、彼の神を妖たちは自らの神と定めた。人類の守護神が<剣神>であるのなら、<アマテラス>こそが我らの守護神であると。
 その一方的な思慕は現在に至るまで続いており、<アマテラス>は妖の救世主としてことある毎に名を使われるようになった。
 それは日本以外でも共通の認識である。<アマテラス>は放浪をする異神(まれがみ)であり、訪れた外つ国にあっても<剣神>とその力を受け継いだ<剣派(けんは)>とは敵対する姿勢をとっていた為である。
 その<アマテラス>こそ、少女だった。人間の身体を器とし、顕現した異神がその正体なのである。齢九百を超える白毛老を幼子として扱うことができるほど永く生きる存在だ。たとえ
若くとも<アマテラス>と交渉を持てる優月もまた、特別な存在として扱われるのは当然であった。
 けれど、優月は固辞する。
『全てはアマテラス様のお力に依るもの。私とアマテラス様とのご縁が結ばれたのは偶々に過ぎません。されど、そのご縁にすがりこうして同胞たちの助けとなれるのは私にとっても幸い
なのです』
 自身よりも遥かに逞しい巨躯を固く構える黒狼に、野狸の妖は首を静かに振った。
『・・・優月殿はその若さでそこまでのお考えとはの。我にもお主のような後継がいたらと思いまするぞ。アマテラス殿もさぞかしご安心であろう』
 白毛老は返事を求めない呟きを漏らす。
『齢九百を超え肉体も力も衰え、人間の魔手を退けるだけの力も出せず、こうしてただ生き長らえるだけに過ぎませぬ。もはやこの老爺のように妖となるほど永く生きる獣も少なく、
後継者は未だ見つかりませぬ』
『白毛老、そのような・・・』
 老妖の悲哀を優月は受け止めた。
 しかし、老妖は毅然と言う。
『されど、アマテラス殿もこうして我らの前に来臨してくださった今、この老爺も弱音など吐いてはいられませぬ。後継が育つまで、地を這ってでも生き抜くと誓います』
 少女は面白そうに答える。
「やってみればいいさ。たかが九百年の若造に老爺などと言われては僕も気分が悪い。それより永く生きる僕はどうなるっていうんだ。なあ?」
 少女は優月に言葉を向けたが、彼は少女が老妖を「若造」と切ってしまったことに冷や汗をかいていた。
 だが、白毛老自身はといえば「若造」と呼ばれたことで気分が高揚したようである。
『若造と仰りますか、この老いぼれを。そうでしょうとも、アマテラス殿には若造でしょうな』
 カッカッカッ、と大きな声で笑う白毛老を、動物達は戸惑うように見つめている。ここ数年、彼らの長はここまで愉快そうに笑うことなどなかった為だ。
『天命を全うするまでは、気持まで死してはならぬのですな。アマテラス殿、どうかこれからも我らの光であれ』
 老妖は力強く言い、少女を見上げた。その瞳には若々しい精気が宿っているのが目に見えるほどであった。



 異神と妖と人間とを運ぶ車は山道を下り、峠にさしかかっている。
 帰りの車中では報告会の様相を呈していた。とはいってもお互いが見聞きしたことを話し合っているのは優月と東柳で、少女は後部座席で携帯電話をいじくっている。
一段落した頃、携帯電話のフラップを閉じるのを見届けた後に優月がバックミラー越しに少女に問いかける。
八咫(やた)からは何と?」
優月は人形に変じて運転をしていた。
人形の優月は細めの瞳が穏やかな雰囲気を漂わせ、一見してどこぞの貴族に仕える執事のようだ。物腰もあくまで柔らかで、その正体が狼妖である片鱗はどこにもない。
人間社会で暮らす為と運転免許を取得しており、人間の東柳が一緒のときにはこうして運転役となる。他の場合は黒狼の姿に戻り、少女を背中に乗せていた。
「今日来た連中の記憶の処理は済ませたそうだ。これから、あいつらがつるんでた裏サイトにウイルスを送り込んで、会員全員のコンピューターを徹底的に破壊するとさ」
 助手席の東柳に携帯電話を押しつけて、少女は続ける。
「そんでもって明日にはインターネットから始めて、新聞社とテレビ局の報道機関に情報を流すんだと。裏サイトの活動記録やら、ログやら、会員の個人情報なんかを一切合切な」
 優月はわずかに眉をひそめた。彼らは非道な人間達だったが、人間社会の残酷さは優月にも解るつもりだ。彼らは徹底的に、追い詰められ後ろ指をさされることとなるだろう。
 東柳も、携帯電話のメールを読んで嫌そうに顔を歪める。
「・・・えげつねぇなあ。俺もあいつらはぼこぼこにしてやりたかったけど、こんなん性に合わねえですよ」
 気性そのままに語る東柳の声を聞いて、優月はいくらか安堵する。古臭いといわれがちな、硬さや熱さは、昔の日本人を思い起こさせて、心地よい。
人間は優月が生きる百年足らずの月日の中でも、常にその性質は変化していく。元々、人間は好きじゃない。いや、嫌悪していた。それでも、こうやって人間ながらに妖の為に
動こうとする東柳らを見て、認識を変えねばと思うのである。
けれど、昨今の人間社会は暗い方に自ら望んで進んでいるとしか思えない気鬱さが漂っている。手足を自身で食いちぎるかのような、自傷性が見え隠れてしているのだ。
人間は他の生物を徹底的に排斥し、さらに自身まで切りつけて、どこへゆこうとしているのだろうか。
「人間を真の意味で裁けるのは人間だけだ。僕や妖が報復の為に殺そうが、これは人間の側からしたら人知を超えた災厄に過ぎない。一方的なものだと捉えられてしまう
だろう。生物的に最も人間に近い存在の獣達がテリトリーを守ろうとする警戒行動さえ、繁栄の邪魔だと切り捨て火を銃を向ける連中だぞ」
 理解などできないさ、と少女は言う。
 人間の東柳は、反論したいができない、と態度で示していた。腕を組んで、唸っている。少女や優月と関わるようになって、人間の本質的な残酷さを何度も見ているためだった。
「同じ土俵にいると認める同属のやったことこそ、一番人間にはこたえるんだ。だから、今回の件はこれでお終いだ」
 少女が、窓の外を見ながら答えた。その視線の先には月があった。濃い紫の空に浮かぶ、白い円。
 うんうんと唸り続ける東柳を見かねて優月が声をかけようとしたとき、少女が助手席を後ろから蹴った。
 衝撃でシートベルトをした体が前のめりになって息がつまり、今度は反動で戻り背もたれに頭を打ち付けてしまう。
「うっとおしい。とさか頭が悩むんじゃない」
「けど、姐さん」
「確かに人間は低俗でくだらん生き物だが、お前はそのなかでも上等だ。安心しろ」
 口をあんぐりと開けて少女を見る東柳に、ふっと微笑って優月が続ける。
「人間が低俗だとかいうくだりは別にして、私もそう思うよ。トーリュー君は私たちにとって必要なんだから」
「ほほぅ、逆らうか。この僕に」
「私は私の意見を言ったまでですが」
 バックミラー越しに、少女と優月は視線を交わす。お互いに、眼が笑っていた。東柳自身は俯き、ぶるぶると震えている。唐突に頭をあげると、一気に喋りだす。
「・・・ありがとうございます!姐さん、兄貴、俺はどこまでもお二人についていきやす!」
 興奮のあまり紅潮した顔を後部座席にねじ込んだ東柳に、少女の鉄拳が飛ぶ。少年は鼻血を吹いて、窓に頭をぶつける。
「うるさい!たまに甘やかすとこうだから嫌なんだ」
「へ、へい、すいやせん・・・」
「・・・仲が良いのは分かりますが、安全運転をしたいのでほどほどにお願いします」
 苦笑して優月は言う。
 こうして笑い合える時間が少しでも長く続きますようにと、願いながら。


/ 了

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